【眠る村】名張毒ぶどう酒事件は冤罪事件なのか? 

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1961年、三重県名張市で発生した毒殺事件。それが【名張毒ぶどう酒事件】です。
犯人:奥西勝が逮捕され、最終的に死刑判決が確定しました。しかし奥西は2015年の獄中死しました。
奥西は当初、自白したものの否認に転じ無罪を主張していました。奥西が亡くなり真相は今もはっきりしない状態です。

今回はどのような事件であったのか、そして事件後の経過をご紹介していきます。

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事件発生

  • 日時:1961年3月28日
  • 場所:三重県名張市葛尾地区の公民館
  • 経緯:生活改善クラブ「三奈の会」の年次総会の懇親会で、ぶどう酒を飲んだ女性17名が中毒症状を訴えた。そのうち5名が死亡した。
  • 死亡者:34歳(奥西の妻)
        36歳(奥西の愛人)
        30歳(会長の妻)
        25歳(前会長)
        36歳

懇親会では男性会員には清酒、女性会員にはぶどう酒が振る舞われました。そのため被害者は全員が女性でした。

三奈の会

事件が発生した葛尾地区は、三重県と奈良県にまたがる小さな集落(約25戸)です。
そのため会員は両県に存在していました。
「三」重県と「奈」良県をあわせて「三奈の会」という名称にしたようです。

事件当日は19時ごろから年次総会が始まり、新年度の役員選挙が行われました。男性12名、女性20名が出席。
女性20名のうち3名は清酒を飲んだため負傷しませんでした。

テップ剤

ぶどう酒に混入していたのはテップ剤と呼ばれる有機リン系の農薬でした。

ピロリン酸テトラエチル(ピロリンさんテトラエチル、英語: TetraEthyl PyroPhosphate, TEPP)は化学式がC8H20O7P2の有機化合物で野菜、果樹の害虫の殺虫剤として使用されていた有機リン化合物である。現在はその高い毒性より農薬の指定からはずされ、毒物及び劇物取締法において特定毒物に指定されている。

当時テップ剤はいくつかの商品が販売されていました。

奥西が逮捕された理由

①三角関係の清算

当時35歳だった奥西には、地区内に住む36歳の愛人がいました。
このことは以前から地区内で噂があり、奥西自身も自白しています。

②ニッカリンTの所持

奥西は混入されたテップ剤・ニッカリンTを所持していました。
茶畑の消毒用として前年の8月に購入したものでしたが、開封されておらず未使用のまま所持していたのです。

自白

重要参考人は奥西を含む男性3名。
奥西は、三角関係やニッカリンTの所持など他の2名よりも動機が濃いため容疑が集中しました。

逮捕後は「妻の犯行」と主張していましたが、事件から5日目の4月2日深夜から未明にかけて自白。その後約20日間自白を続けました。

否認

自白した奥西でしたが、勾留期限間際の4月24日になって否認に転じました。起訴されてからも無実を訴え続けることになったのです。

否認に転じたことで奥西の家族は集落を離れ、転居を余儀なくされたようです。

証拠について

一般的に自白は重要な証拠になります。
しかし刑事訴訟法319条2項では

「被告人は、公判廷における自白であると否とを問わず、その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない。」

と定められています。
これは「自白だけでは有罪にできない」ということです。
「物的証拠」や「関係者供述」といった「自白以外の証拠」が必要となるのです。

自白以外の証拠

前述の通り、奥西を犯人とする根拠は

①三角関係
②ニッカリンTの所持

です。これに対し、自白以外の証拠はあるのでしょうか?

①三角関係について

何か事件を引き起こしかねない、深刻なものだった。
これが奥西の自白を裏付ける「関係者供述」です。
しかしその一方で、
確かに三角関係はあったが、事件に発展するような深刻なものではなかった。
という関係者供述も多くあるのです。

②ニッカリンTについて

事件前夜にニッカリンTを竹筒に移し入れた。事件当日の朝、ニッカリンTの瓶を名張川に投げ棄てた。

奥西はこのように具体的に自白。
しかしニッカリンTの瓶は、徹底的に捜索したにもかかわらず未だ発見されていません。つまり自白のみが存在し、物的証拠がないのです。

犯行時間

事件当日の奥西は、会場を準備するため会長宅(奥西宅の隣)の玄関口にあった清酒とぶどう酒を公民館に運びました。
そして事件前夜に竹筒に移したニッカリンTを、ぶどう酒に混入させたとされています。

ある関係者が
「奥西が公民館で一人きりになる時間が10分間あった。」
と供述しています。

しかしこの関係者が述べた犯行時間帯と、奥西が自白したとされる犯行時間帯が矛盾しているのです。その後の取調べで犯行時間帯が一致する奇妙な経緯があり、大いなる疑問点となっています。

一致しない歯型

奥西は、ぶどう酒の王冠を「歯で開けた」と自白しました。
当時の鑑定結果もそれを裏付けるものでしたが、のちに弁護側は「歯型が一致しない」という鑑定結果を得ました。

しかし王冠に残っていたとされる「当初の鑑定結果は十分に信頼できる」という判断が第二審で下されました。

判決

第一審

1964年12月23日:津地方裁判所

無罪
証言をもとにした犯行時刻や王冠の状況が自白と矛盾している。

第二審

1969年9月10日:名古屋高裁

死刑
犯行を実行する時間はあった。歯型の鑑定結果は十分に信頼できる。

上告棄却

1972年6月15日:最高裁判所

上告を棄却=死刑判決確定
この後も再審請求が繰り返されることとなります。

再審請求

弁護団は2013年11月5日に名古屋高裁へ「第8次再審請求」を申し立てました。
しかし半年後の2014年5月28日、名古屋高裁は請求を認めない決定をしました。「無罪となるような新たな証拠がない」と判断されたからです。

請求申し立てから半年での決定は、高齢になった奥西の健康状態を考慮したためです。

奥西の最期

奥西は2012年6月に肺炎を患いました。
そのため名古屋刑務所から東京の八王子医療刑務所へ移されました。弁護団は2015年5月に「第9次再審請求」を行うものの、奥西は
2015年10月4日午後0時19分 肺炎のため89歳で亡くなりました。

それに伴い「第9次再審請求」は棄却されました。

まとめ

奥西の死後、2015年11月6日に奥西の妹によって「第10次再審請求」が申し立てられましたが、2017年12月8日に棄却されました。

事件発生から58年をむかえる今も
「名張毒ぶどう酒事件は冤罪である。」
という意見が根強くあります。

乏しい物的証拠と自白のみで死刑判決が下された本件。司法の在り方が問われる事件と言えるでしょう。

追記

東海テレビ製作のドキュメンタリー映画『眠る村』を観覧してきました。
本事件について鋭く迫った作品になっています。レビュー記事はこちら

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